群馬県桐生市宮本町にある美和神社は延喜式内社と呼ばれ、とても古い歴史があります。境内に入るだけで心が落ち着き、長い歴史を感じられるような場所です。
美和神社は桐生の観光スポットである「重伝建エリア」の近くにあります。桐生観光の際は、ぜひ立ち寄ってもらいたい場所でもあります。
今回は美和神社の古い歴史について紹介していきたいと思います。
美和神社は上野国十二延喜式内社の一つ
延喜式内社とは平安中期にまとめられた延喜式神名帳に記載がある神社のことをいいます。延喜式内社は上野国(群馬県)には十二社あり、美和神社はその内の一社になります。
また、平安時代に作られた歴史書「日本後記」には、延歴15年(796年)に美和神社を官社となす旨が記されています。
この事実からわかること
- 美和神社は平安時代にはすでに存在していたこと
- 朝廷が美和神社の存在を把握していて、国家祭祀に関わる重要な神社として認めていたこと
延喜式神名帳とは
延長5年(927年)に完成した、古代の法律を示した「延喜式」(全50巻)の巻9・10を指します。
延喜式神名帳には全国に鎮座する官社(二千八百六十一社)が記載されています。延喜式神名帳に記載されている神社を「(延喜)式内社」といいます。
式内社は、祈年祭(としごいまつり)で奉幣(ほうへい)にあずかる神社として、国家祭祀に関わる重要な神社とされていました。
奉幣(ほうへい)とは
古代の日本社会は、稲作中心の農耕社会を基盤としていました。古代の主な職業は農業です。春の農業を始める前には、各地の神社で五穀豊穣を祈願する「祈年祭(としごいまつり)」、秋には収穫を感謝する「新嘗祭(にいなめさい)」が行われていました。この二つは農業を生産の基盤としている国(朝廷)にとって重要な国家祭祀でした。
五穀豊穣を祈願するとともに朝廷、国の安泰を祈願する祈年祭(としごいまつり)では、式内社は朝廷より幣帛(へいはく)という神様への御供え物を受け取り、これを神社(祀られている神様)へ御供えをしました。これを奉幣(ほうへい)といいます。
※奈良時代と平安時代の区分
奈良時代は793年まで。
平安時代は794年から始まります。
美和神社の創祀年代は不明
美和神社は安土桃山時代(天正年間1573~1592年)に火災のため社殿・宝物・由緒等すべて焼失したとされています。そのため美和神社の創祀年代は資料が存在しなく、不明となっています。
美和神社の御祭神は大物主命
社伝によると美和神社は「崇神(すじん)天皇の御代に大和国(奈良県)の御諸山(みもろやま)から勧請された」と伝わっています。
大和国の御諸山とは奈良県桜井市にある三輪山のことを指します。この三輪山を神体山としているのが奈良県にある大神(おおみわ)神社であります。
三輪山に祀られている神様が大物主命(オオモノヌシノミコト)となり、大神神社の御祭神となります。
美和神社は大神神社より勧請されているため、御祭神は大物主命となります。
御祭神とは
その神社に祭っている神様のこと
崇神天皇とは
日本の10代目の天皇(紀元前の時代の天皇)
大物主命の別称は大国主命
日本の神様の特長として一柱の神様に複数の別称を持つことがあります。別称を多く持つ神様として大国主命(オオクニヌシノミコト)があげられます。
大国主命は国造りの神様、因幡の白兎の話でも有名な神様です。大国主命は出雲大社の御祭神でもあります。
大物主命は大国主命と同一神として広く認識されています。つまり、美和神社には大物主命(=大国主命)が祀られていることになります。
まとめ
- 美和神社はとても古くからある神社(平安時代には存在していた)
- 御祭神は「大物主命(オオモノヌシノミコト)=大国主命(オオクニヌシノミコト)」
- 大国主命は国造りに貢献した神様で、出雲大社の御祭神でもある有名な神様
桐生市立図書館で借りた参考文献でもある「郷土史講演会 三輪山伝承と上野国の美和神社」DVDでは、美和神社が大神神社(おおみわ)より勧請された理由(美和神社が創祀された理由)も解説されていました。
古い神社には歴史があります。神社の空間に入るだけでなんとなく心が落ち着くのは、昔から大切にされてきたその地の「空間の履歴」を肌で感じ取ることが出来るからだと思います。
美和神社
群馬県桐生市宮本町2丁目1−1(地図)
※美和神社の駐車場はありません。
<参考文献>
①「郷土史講演会 三輪山伝承と上野国の美和神社」DVD
②「桐生の歴史」桐生文化史談会
③「神社の由来がわかる小辞典」三橋健